株式の大衆化で新たな繫栄を

2024/05/30

書評

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特別企画 株式の大衆化が日本人を豊かにする

「株式の大衆化で新たな繁栄を」再録


20年後、30年後の新しい日本においては、人々はみな自分の仕事から収入を得る一方で、株主となって配当を受け取るというような状態がおそらく生まれてくるであろうし、また生み出さなければならないと思う──。


松下幸之助 (パナソニック創業者) 

1894年、和歌山県生まれ。9歳で単身、大阪へ奉公に出る。その後、 大阪電燈勤務を経て、1918年、松下電気器具製作所(35年に松下電器産業に改称。 現・パナソニック)を創業。46年、PHP研究所を創設。 89年、94歳で死去。


松下幸之助はいまから半世紀以上前、1967年11月号の「PHP」において、株式が一部に偏在することを憂い、大衆化により国民 全体で経済と社会の活性化を図ることの重要性を説いている。本稿はそれを再録、一部編集したものである。



繁栄に貢献すべき株主


 今日、資本主義社会の国々では、何らかの事業を営む場合に、多数の人々から資本を集め、それを有効に活用するための株式会社という制度がある。

 わが国の場合も、この株式会社が数多くあって、産業界、経済界の中で重要な位置を占め、国家国民の繁栄、発展のために非常に貢献している。しかし、ここで忘れてはならないのは、その株式会社は株主あってのものだということであろう。つまり、株式会社というものは、その会社の経営を行なっていくために必要な資金を出資する株主というものがなければ、そもそも存在しえないものなのである。

 そうしてみると、株式会社が健全にして安定した経営を行なっていくことが、国家国民の繁栄、発展のためには非常に重要であるが、それには、その前提として、株主もまた健全にして安定した姿でなければならないと思うのである。

 しからば、現在の日本においては、はたして株主はそのような健全にして安定した姿を保持しているだろうか。私は、そこに、いささかの疑念を抱いている。

 戦後のわが国では、終戦直後のいわゆる経済民主化政策によって、財閥が解体されるなど、“資本と経営の分離”が促進され、株式は一般国民大衆の手で所有されるということが多くなった。私は、それは資本主義の一歩進んだかたちとして非常に好ましい状態だと思っているのであるが、ただここのところに来て、世間一般になにかそういう大衆個人株主を軽視するような風潮が出てきているように思えてならない。現に最近では、そういう個人株主の持ち株比率が、ひところよりもかなり減りつ つあるというのである。 

 特に、このたびの資本の自由化に際しては、 多くの会社がいわゆる株主の安定化ということで、株式を大衆個人の手から特定の法人のほうへ集めようとしているともいわれている。はたしてそれが、今後の日本の国家国民の安定、発展のために最善であるかどうか。現状としてはやむをえない面があり、またそれはそれなりの効果をあげるであろうが、しかし、こういう状態のままでは、 資本が一部に偏在してしまうという姿が再びわが国に生まれてくるおそれもあるので、決して望ましいことではないと思う。私はこれは、資本主義の進歩している姿ではなく、むしろ退歩している姿だとも考えられると思うのである。 

 また、株主自身の考え方にしても、昨今はいささか投機的な面が強くなってきているように思われる。株価が下がれば買い、上がれば売って儲けるというのが、今日では当然のこととされているようだが、はたしてそれが株主本来のあり方かどうか。 株主というものは、株式会社に出資することによって、国家の産業に参画するという一つの大きな使命があると思うのだが、それが株主にどの程度正しく自覚、認識されているだろうか。出資し会社から配当を受ける一方で、会社の経営を見守り、時に応じては叱咤激励し、その業容の伸展を楽しみにするというような健全な考え方のもとに株主になるということが、もっと強調されてもよいのではなかろうか。

 そういうことをいろいろ考えるにつけ、私はいま一度、政府も経営者も、また株主も、お互い国民すべてが、新しい日本において何が国家国民の真の繁栄、発展に結びつく正しい株式制度のあり方であるかを、真剣に考えあわねばならないと思うのである。



ソ連に見られる進歩 


 先般、トヨタ自動車の石田退三さん(当時会長)から伺った話であるが、一昨年、日本からソ連へ使節団が行ったとき、その使節団の団長であった富士製鉄の永野重雄さん(当時社長)がソ連最高の要人の一人と懇談した際、その要人は、戦後の日本の発展にふれ、この発展は独占資本によるものだと断定したという。 

 そこで、永野さんはこれに反論して、「それは違う。 日本は今日、独占資本家のもとに事業が進められているのではない。もう個人では税制の関係もあって、巨額の資本を独占することができなくなっているのだ。資本は広く大衆の手から集められたものであって、資本を使うことによって生まれる利益というものもみな株主その他の国民大衆に分配されている。つまり、企業はその利益の一部を税金として国に納め、一部を株主へ還元し、さらには製品価格の引下げや従業員の福祉増進、あるいは事業拡張などに使っているのである。だから、あなたがたの考えているような古い資本主義というものとは、事情がもうまったく違ってきているのだ。企業で働く人々も、資本の力のもとでやむなく働かされているというのではなく、みな自発的にいきいきとしかも効率よく働いている。そこに、日本の著しい発展が生まれてきたのだ」というように答えられたそうである。これに対しては、ソ連の要人も、非常な興味、関心を示し、真剣にひざを乗り出すようにして聞いていたという。 

 私は、その話を石田さんから聞いて、永野さんはいい話をされた、まったくそのとおりだと思った。わが国は、資本主義の国とはいっても、もはや強大な個人的資本家階級があって、それが企業を支配しているわけではない。国民大衆が株をもち、株主となって企業に結びついている。 

 実際のところ、今日のわが国では、株をもっている人の数は非常に多く、1社のみで40万人もの株主を有する企業もあるのである。終戦後、わが国の株主数は1千万に近いといわれたが、1千万というと、つまり全世帯数の約3分の1は株主だということができよう。おそらく、欧米を通じて、日本ほど株主の大衆化されている国はないのではあるまいか。 

 だから、資本を使うことによって生まれる利益というものも、一部の資本家によって独占されるのではなく、 広く大衆のあいだで分配されているわけである。それが結局は、社会全体に潤いを与え、経済活動が活発に行われる一つの原因になっていると思うのである。 

 最近の新聞の報道によれば、ソ連でも、株式会社という企業形態をとったほうが国家国民のためにもよい、というような説が論議されるようになったということである。もともとソ連では、個人の私有財産が制限され、生産手段はほとんど国家に帰せられ、国家の計画に従って生産をし活動が営まれる建前になっているというが、このように資本が国家の一手に握られているというのは、 いわば国家の独占資本主義とも考えられるであろう。そのため、ソ連では、自発的に一人で、あるいは共同出資事業活動を営み、それによってみずから利益を得ていくということが、これまでは原則として許されていなかったようである。 

 しかし、人間の本性というか人情というものから考えると、個々人の働きをさらに高め、よりいっそうの成果をあげていくには、やはり各人の自由というものをもっと高く評価して、自由競争というかたちにおいて経営活動を進め、それぞれの働きによって生まれた成果が、 それぞれに自分の利益となって還元されるということが必要なのではあるまいか。そういう人間の本性に根ざした考え方から、ソ連でも株式会社を認めようかという論議がなされるようになってきたのであろう。

 そもそもこうした論議をすることが許されるようになったということは、つまりソ連でも共産主義の基本理念は堅持しつつも、やはり人間性に立脚した自由競争というようなものを取り入れたほうが、国家国民のためにプラスになるという認識が高まってきたということであろう。いいかえれば、共産主義の進歩なり発展というものが実現しつつある、という一つの証左ではないかと思われる。これは、われわれにとっても非常に興味のある、また考えさせられる問題だと思う。



天与の好機を逃がすな 


 そのように、人々がほんとうに喜びをもっていきいきと働くためには、お互い人間がもって生まれた欲望が自由に適正な範囲で満たされることがまず必要だと思う。その人間としての自由が束縛され、 あらかじめ決められた計画の枠の中でのみ仕事を行うというのでは、やはり能率は上がりにくいし、第一、人間としてのほんとうの喜びというものも生まれにくいと思うのである。 能率を上げ、真の喜びを生むためには、何といっても、自発的にみずからの力と知恵で事を行うことが許され、また 業績をあげて得られた利益がみずからに分配される、という社会の仕組みが必要であろう。 

 そういう条件にかなう制度の一つが、株式会社であり、また株主というものだと思うのである。だから、社会的に見て株主の数が多くなるということは非常に望ましいことであって、極言すれば、国民のすべてがどこかの会社の株主であるというようなところまでもっていければ、これにこしたことはないと思うのである。 

 幸いなことに、日本においては、戦後このかた、期せずしてそういう株式大衆化の姿が現われてきたのである。つまり、初めにも述べたように、戦後の日本においては、財閥の解体もあって、資本なり株式の大衆化が大いに進んだ。これは、考えてみれば、わが国経済界の安定、発展のため、ひいては国家国民の繁栄のためにまことに得がたい、いわば天与の機会であったといえよう。 しかるに、そのせっかくの好ましい状態、姿というものを、政府をはじめ、経営者、あるいは株主がこれをさらによりよく生かすというよりも、むざむざ壊しつつあ るというのが、最近の日本の姿ではないだろうか。その三者がいわば共同で、一度懐中に抱いた玉を惜しげもなく捨てようとしているというような感さえするのである。

 たとえば、先述のように、資本の自由化に対して株式 特定の法人に集めようとする傾向もあるようだし、また何といっても最近では、株をもっていてもあまり得にならず、かえって損になるというような傾向がしだいに出てきているのである。すなわち、企業の業績が悪くなったから減配するとか、無配にしてしまうということが、安易に、一方的に行われている例が少なくないようである。そのため、株をもっている人々は、時として大きな損害を受けている。つまり、安心して投資し、株をもつということができにくいような状態が生まれつつあるのである。 



短く形式的な株主総会 


 これは、端的にいえば、今日のわが国に株主軽視の風潮があることが一つの原因だと思う。 株式会社は決して 社長や重役のものではなく、本来株主のものであるという意識が、実際にはまだまだ薄いように思うのである。 早い話が、会社株主にとって非常に大事な株主総会にしても、ごく短い時間で形式的にすませてしまう場合が 多いようだ。 

 そもそも株主総会というものは、経営者が決算期ごとに株主に会って会社の業績を報告し、それがよいものであれば株主から称賛とねぎらいの言葉を頂戴し、もし十分な成果があがらなかったときには、慎んでお叱りをこうむる、というのが本来の姿であろう。 

 しかるに、現在の経営者の中には、いろいろの事情は あるにしても、自社の株主総会の所要時間の短さを自慢し、それが経営者としての一つの手腕であるというような考えをもつ人も少なくないようだ。これは株主軽視もはなはだしいと言わざるをえない。 またそういうことでは、株主の意を体して真剣に経営に打ちこもうとする態度も生まれず、いきおい会社の発展を期待し、かつまたその発展を喜ぶ健全な株主を失望させ、株を手放していくという傾向を助長することになるだろう。 

 実際、そのように株主を軽視する結果、今日では、まじめに会社に投資してその会社の発展を自分のこととして喜ぶというような株主は、非常に少なくなってきたように思われる。損をした株主は、株というものは怖いものだと考えるようになってきている。 それで、もう株は買わない、株よりも他に投資したほうがよい、たとえば 土地に投資したほうがよいということになってきている。今日は、土地の値段も上がる一方だというが、その一つの原因はこういうところにもひそんでいると思うのである。 

 したがって、今日では株をもとうという場合は、初めにも述べたように、株価の上下変動の興味だけから、つまり競馬などと同じように、いわばばくち的な考えで株 をもつ人が多くなってきたのではないだろうか。 そういう人が非常に多くなってきたために、経営者としてはいっそう、株主というものを重要視せず、むしろこれを軽視するようになってきたように思うのである。つまり、 経営者が株主の心を心とせず、これに報いることが少ないため、健全な株主は去り、株価の変動のみを対象にした不安定な株主だけが残る。 そういう株主の姿を見て、 経営者はよりいっそう株主を軽視するというわけである。考えてみると、これは、見すごすことのできない悪循環ではないだろうか。 

 われわれは、この悪循環を早急に断ち切り、大衆が安心して、喜びをもって株に投資することのできるような姿を、新しい日本に力強く生み出していかなければならないと思う。 



この悪循環を断つために 


 そこで、まず政府に望みたいことは、政府みずからが、株式の大衆化なり株主尊重の意義というものを正しく認識、評価することである。 そして、その上に立ってすべての国民に株式をもつことを積極的に奨励、要望し、それを実現するための具体的な奨励策、優遇策というものを大いに打ち出すことが大事だと思う。 

 たとえば、株をもつための融資をするとか、奨励金を出すとか、あるいは一定数以下の少数株の株主の場合は特に税金をタダにするとか、きめ細かい施策を、適宜講じていかなければならない。もちろん、そのように特に小株主を優遇する場合は、同じ人が他人の名義を使ってその優遇策の不当な恩恵に浴することを防ぐために、何らかの防止策が必要であることはいうまでもない。 

 また、一度買った株をできるかぎり手放さないように、株主を指導していくことも大事であろう。こういうことを、政府は国家100年にわたる経済の基本政策の一つ として、力強く進めていかねばならないと思う。 

 つぎに、経営者に望みたいことは、その基本の考え方においても実際の態度においても、株主は会社運営に必要な資金を出資してくれている、いわば自分たちのご主人であるということを、決して忘れてはならないということである。つまり、自分の主人である株主の利害に対しては、自分のこと以上に真剣にならなければいけないと思う。 

 儲かったら増配し、儲からなければ減配するということは、原則的には認めるとしても、それを会社が一方的に決めてはならない。もちろん、現実の問題としては、 そうせざるをえない場合も出てくると思うが、しかし、 株主の心を心として考慮することを、あくまでも忘れてはならない。 

 さらに、株主自身として反省すべきことは、株主本来の姿に立ち返るということだと思う。つまり、株主は、 株に投資することによって国家の産業に参画し、その発展に寄与、奉仕するといういわば尊い使命をもっているのである。そして、その使命を全うすることによって正当な利益の配当を受けるわけである。株主は、こういう株主本来の使命というものを正しく自覚、認識して、原則としては、いわば永久投資するという考え方から株をもつことが大事だと思うのである。 

 株価が上がれば売り、下がったら買うということは、 一面確かに考えてもよいことであるかもしれないが、それはあくまでも必要やむをえざる場合に限るべきだといってもよい。今日では、それが投機の対象としてあまりに簡単に売り買いされているように思う。それが経営者 をして株主を軽視させる一因になっているのである。しかし、もし株主が原則として永久投資というか、二代も三代も同じ会社の株をもち続けるというような確固たる 信念をもっておれば、私は決して株主が軽視されるようなことはないと思うのである。 

 そういう意味からも、株主は、みずから会社の主人公であるということを正しく自覚認識していなければな らない。そして経営者に対して言うべきは言い、要望すべきは要望するという、主人公としての態度を毅然として保つことが大事ではないかと思う。たとえ少数株しかもっていない株主であっても、単に株をもって配当を受け取るというだけでなく、会社の主人公たる株主としての権威、見識をもって会社の番頭である経営者を叱咤激励する、ということも大いに望ましいと思うのである。 そのようにすれば、経営者としても経営によりいっそう真剣に取り組み、業績をあげ、利益をあげて、 それを株主に十分還元しようという気持ちが強くなってくるので はないだろうか。 

 さて、これまで、政府、経営者、そして株主の三者について、それぞれに反省すべき点、とるべき態度というものを考えてきたが、ここでもう一つ考えたいのは、いわゆる証券会社の役割である。私は、証券会社の使命というものは、一つには、今ここで述べているような株式の大衆化を実現するために大衆的個人株主をできるだけ多くつくっていくことだと思うのである。ただ、その場合、長期安定株主を多くして、株価の上下の利ざやで儲けるような株主を少なくしていけば、証券会社での株式 取り扱いが少なくなって、その経営が成り立たなくなるのではないかという一つの心配をもつ向きがあるかもしれない。 

 しかしそれは決して心配はないと思う。というのは、 たとえ原則的には長期株主であるつもりでいても、人間の一生にはいろいろ個人的な出来事があるから、どうしても株を手放さねばならないようなことが起こってくるであろう。しかも株式の大衆化によって、非常に多数の株主がいるので、全体としては証券会社が十分商売になるだけのものがあると思う。つまり、100人の株主が月に 1回売り買いするよりも、1万人の株主が年に1回売り 買いするほうが、証券会社としての株式取り扱いは多くなるというわけである。 

 もちろん、投機的な株主というものを絶無にすることはできないし、絶無にすれば株の相場も立たないので、 それも困るが、いずれにしても証券会社は一つの良識をもって、そういう投機的な株主を最小限度にとどめていくことが大事であろう。投機的な考えをもつ株主は少なく、健全な考えの株主が多くなれば、証券会社はむしろ堅実な繁栄、発展を遂げ、証券会社としての崇高な使命を、より高く達成できるようになるのではあるまいか。 



株式の大衆化を進めよう 


 このようなことをいろいろと考えるにつけても、新しい日本の繁栄、平和、幸福、そして国家国民の真の安定のためには、やはりなるべく多くの国民が株をもった形態において、国家産業の興隆に寄与するということを、 力強く推し進めていくことが肝要だと思うのである。そうすれば、株主に投資した株式から受ける利益だけでなく、投資することによって産業が興隆し社会が繁栄するところから起こる、いわゆる社会共同の繁栄による利益なり恩恵を受けることができる。つまり大衆は、株をもつことによって二重の利益を得られるわけである。 

 しかも、そのような株式の大衆化、長期化によってこそ資本自由化に際して各企業のめざす真の株主安定化ということも実現できるのであって、さらには自由主資本主義の本来のよさというものが、ますます生かされるようになると思う。また人類の貴重な所である資本というものが多くの人に分けもたれることによって、経済界の安定、発展、さらには国家国民全体の安定、繁栄がいちだんと高まってくるなど、そこから生み出されるものは、実に測り知れないほどのものがあるといえよう。 

 20年後、30年後の新しい日本においては、人々はみな自分の仕事からの収入を得る一方で、株主となって 配当を受けるというような状態がおそらく生まれてくるであろうし、また生み出さなければならないと思う。 そこに私は、国民全体の安定と繁栄を生み出す一つの道があるように思うのである。 

 このことを政府も経営者も、また株主も証券会社すべての国民がこぞって正しく認識し、新しい日本に株式の大衆化の姿を勇気をもって生み出していきたいものである。 

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