投資における複利の重要性は強調すべきところであることに異論はないものの、どうして自然科学や疑似科学の要素も含まれる仮説を例えに説明しようとするのかは本当に謎です。
社会科学や人文科学領域における権威付けは、かなり危ないアプローチから行われることの典型かもしれません。
米国のアカデミズムにおける社会科学の立ち位置は赤狩りの歴史と重なり、マッカーシズムへの対抗から数字を用いた統計的な手法に傾かざるを得なかったのは、自然科学分野のように研究予算を獲得する必要性に迫られたからです。
研究者の感想ではなく数字で結果を示すことを強いられるようになったことは、もう少し昔は野放図で牧歌的だった株式市場にも変化を与えました。
脚色された投資の歴史は、そこに資金を投じるように魅せるマーケティングも介在し、さぞかし良いものとして語られますが、金を巻き上げるという意味においては新興宗教となんら変わりないわけです。
ゲームのルールが異なり、成功するのは市場競争の原理を理解し資産を増やすか教団の幹部となって資産を増やすかの違いにすぎません。
JPモルガンもバークシャーも世界平和統一家庭連合も目指すところは一緒です。